A CHRONOLOGY OF GYMNASTICS

 

1988年のインターナショナル・ジムナスト誌に掲載されたものです。

 

18世紀

1774

バセドウの「汎愛学校」がデッソウに開設される。ドイツ語の「ジムナスティーク」(Gymnastik)は学校で行われる体育運動を指している。(平均台・水平はしご・ボールや棍棒、輪などの軽手具が使用される)

1793

「ドイツ体育の祖父」と呼ばれるグーツムーツによって『青少年の体育』(Gymnastik fur die Jugend)が発刊。

先述のように、ここでの「Gymnastik」は現在使われているような意味を持たない。

1794

フィートにより『体育百科事典』が刊行される。あらゆる跳躍が示され、ここでの水平棒の跳躍が後に考案された平行棒の先駆となったのかもしれない。フィートはバセドウの遊戯場の影響を受けていた。

1799

ナハテガルにより、大学生のための体育トレーニング学校が開かれる(デンマーク・コペンハーゲン)。スウェーデン体操を考案したリングは、ここの優秀な生徒であった。器具はグーツムーツのものをモデルとした。

 

19世紀

1804

ペスタロッチ(イヴェルドン・スイス)が身体訓練についての論文を上梓。

1811

「ドイツ体育の父」として知られるフリードリヒ・ルートビッヒ・ヤーンにより、「トゥルンプラッツ」(Turnplatz・戸外体操場)がベルリン郊外のハーゼンハイデに開設される。ここでの「Turn」をヤーンはドイツ語源であると取り違えていたが、現在の「体操」とほぼ同じ意味で認識されるようになった。ラテン語での「tornare」やギリシャ語の「tornos」は旋盤での仕事を意味しているが、現在目にするようなひねりや宙返りの動きからすれば、旋盤をイメージするのは容易である。ヤーンは平行棒を考案し、それまでの跳躍運動とは異なり、あん馬での運動(シュウィンゲル(schwingel)−スイスの方言に関連しているのだろうが、くるりと回るという意味)を提唱した最初の人物である。また彼は鉄棒運動(当時は木製の棒だったが)を普及したことでも知られる。

1813

リングがスウェーデン・ストックホルムに中央体操学校を開設。

1816

ドイツ・ハンブルクに最初のトゥルンフェライン(Turnverein・体操クラブ)が開かれる。ヤーンとアイゼレンにより『ドイツ体操の技芸』が刊行される。

1819

ドイツでのトゥルネン活動が禁止される(7月14日)。体操家は秘密裏に活動したり、他国へ移住した。

1824

ヤーンは5年間の獄中生活の後、無罪とされて釈放。無罪判決にも関わらず、王の特命によりヤーンはベルリンから10マイル以内と大学のある都市で暮らすことができなかった。彼はフライブルクで警察の監視下に置かれることになった。彼は歴史学の教授として年1000ドルの俸給を受けていたが、歴史やトゥルネンを教えることはできなかった。

1825

マサチューセッツ州・ノーサンプトンのラウンド・ヒル・スクールに、政治亡命者であるチャールズ・ベック博士が体育教師として招聘された。ヤーンの「トゥルンクンスト」(Turnkunst)を英訳し、ヤーンの体操に基づいた最初のアメリカでのプログラムを考案した。こういった移民の例はその後何度も繰り返され、アメリカでの体育や体操のルーツはここにあるといえる。

1826

ヤーンの生徒であったカール・フォレン博士がボストン体操学校を創設。

1827

3人目の政治難民であり、ヤーンの生徒では最後の亡命者であるフランツ・リーバー博士がボストンで水泳と体育を教えた。

1828

チャールズ・ベックがヤーンの『ドイツ体育論』(Die Deutsche Turnkunst)を英訳。

1830

フランシス・アモロスが体操指導法を執筆し、フランスでの体操活動のさきがけとなる。

1842

プロイセン王、フリードリヒ・ウィルヘルム4世によってトゥルネン禁止令が解除される(6月6日)。

1843

シュピースの継承者であるドイツ人、ルドルフ・ステファニーがチェコスロバキアで体操活動を開始。

1846

『体操家』(Der Turner)として知られる定期刊行物がドレスデンで発刊。ハーゼンハイデの体操場が再開。

1848

ドイツ体操連盟が発足。オハイオ州・シンシナティに最初のドイツ/アメリカ体操クラブが開設。後にニューヨークとフィラデルフィアでも開設される。

1850

フィラデルフィアで北アメリカ体操連盟(ドイツ人によって組織された体操クラブ連盟)が発足。

1852

フライブルクでヤーン死去。

1856

ライプツィヒでドイツ体操家新聞が発刊される。

1860

コーブルクで最初のドイツ体操祭が開催。

 

1860年〜63年に「平行棒論争」が起こった。平行棒は胸の筋肉や骨に害を及ぼすとスウェーデンが提起したが、ドイツはこれに反発。後に身体学者のエミール・ドゥボワ・レイモンドが間に入り、ドイツ側を支持した。

1862

ヤーンのトゥルネンに基づき、ミロスラフ・ティルシュがチェコスロバキアでソコル運動を開始。

1863

第3回ドイツ体操祭がライプツィヒで開催。

1865

アメリカでは最初のソコル協会がセントルイスで発足。その後シカゴとニューヨークでも発足。指導者養成のために、トゥルナー達によって北アメリカ体操連盟附属の大学が設置される。ベルギー体操連盟が発足。

1872

第4回ドイツ体操祭がボンで開催。

1873

フランス体操連盟が発足。

1881

ベルギー体操連盟会長二コラス・キュペルスにより、国際体操連盟発足のためにヨーロッパ数カ国の体操連盟が招聘される。ヨーロッパ体操連盟が7月23日に発足。

1885

全米アマチュア競技連盟(AAU)が発足。体操を含めた数競技でルールがまとめられる。

1886

W.ハースが初代全米タンブリングチャンピオンとなる。

1887

国際体操連盟(FIG)が発足。

1888

ロバート・ストロールが初代AAUロープ登りチャンピオンとなる。

1896

第1回オリンピック・アテネ大会。体操は6ヶ国の参加。

1897

AAUが最初の男子個人総合の大会を開催。

1900

鉄棒の2回宙返り下りが発表される。

 

20世紀

1903

第1回世界体操選手権が開催される。参加4ヶ国(フランス・ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)。

1904

セントルイスオリンピックに初めてアメリカ選手が参加。体操競技と陸上競技の双方に参加(3種目の得点を加算して争う)。

1921

ヨーロッパ体操連盟が国際体操連盟に名称変更。ニコラス・キュペルスが初代会長に(1924年まで)。アメリカが国際体操連盟に加盟。

1923

ミュンヘンでの第13回ドイツ体操祭で女子種目が組み込まれる。

1925

今日「アメリカ体操の父」と呼ばれるロイ・ムーアがAAU体操委員会会長となる。

1928

FIG主催の国際競技会では初めて女性の参加が認められる。

1930

フランス・リヨンで第9回世界選手権開催。

1934

ザモイスカ伯爵夫人のリードで、FIGが最初の女子競技会を開催。手具を使った運動、跳馬、平行棒、平均台が行われた。走り幅跳びややり投げ、60メートル走も行われ、団体はチェコスロバキア、個人総合はデカノワ(チェコスロバキア)が優勝した。

1936 

アメリカ女子が初めてオリンピックに参加。この頃既に段違い平行棒が考案されていたが、競技会では1952年まで使用されなかった。

1937

ピエール・ド・クーベルタン男爵が心臓発作で死去。

1938

シカゴ大学で第1回NCAA体操選手権が開催される。

1948

女子技術委員会がつり輪を廃止し、段違い平行棒を1952年から採用することを決定。

1950

スイス・バーゼルで第12回世界選手権が開催。陸上競技が行われた最後の大会となる。

1951

第1回パン・アメリカン大会がアルゼンチン・ブエノスアイレスで開催。

1952

ヘルシンキオリンピック開催。ドイツと日本が戦後初めて参加。同じく初参加のソ連が男子と女子でほとんどのメダルを獲得した。

1953

FIGの主導で第1回世界体操祭がロッテルダムで開催される。

1954

ローマで世界選手権開催。戸外で行われた最後の大会となる。

 

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