勇気ある教訓 エレナ・ムヒナ

‘A Courageous Lesson from Elena Moukhina’  by Alexandre Boutsenine  Reprinted from ‘Moscow News Weekly’

 

 

エレナ・ムヒナは1978年の世界チャンピオンだった。しかしこの若いソビエトの体操選手は1980年のオリンピックの直前にタンブリングでの事故のせいで体が麻痺してしまった。その7年後、アレクサンドル・ブーセニンがムヒナとのインタビューを彼女の家で行った。彼はこう語っている。

 

「レーナの部屋には余分なものは何ひとつありませんでした。彼女が障害と闘い、世の中とつながっているのを助けるためのものだけです。治療体操のためのスポーツ器具、テレビ、テープレコーダー、新聞、そして本です。簡素な雰囲気でしたが、レーナがいるおかげで冷たくはありませんでした。彼女は特別な医療用の椅子に座って私を迎えてくれました。私たちは、彼女がどのようにして1978年のモスクワニュース杯を獲得したのかを思い出しながら話をしました−時間は容赦なくあっという間に過ぎてしまったのです。

 

−レーナ、許してくださいね。でもあなたは怪我を克服するのにもう疲れてしまったのではないですか?

疲れている暇はありません。大切なのはゴールまで自身の信念を失わないことです。たとえ私にとって人生が、達成できないもののための単なる努力で終わってしまうだろうと気がついていても。

仕事のおかげで憂うつな思いを紛らわすことができます。1984年に身体文化大学を卒業したことがどんな意味を持っていたのか想像できないでしょう。私に非常に多くの時間を割かなくてはならなかった先生方には本当に感謝しています。おわかりでしょう、彼らは授業や試験のために私のところに来なければならなかったのです。

大学を卒業したおかげで私はコーチとして働くことができますが、もっと広い範囲でスポーツに関わって働くことに惹かれています。それは、私が考えているように、今のところ行動よりも話すことの方が多いのです。

 

でもそれはまだ先のことですね。今のところ食事や睡眠、マッサージと読書以外にはひたすらリハビリの毎日です。秋からはワレンチン・ディクルのシステムにしたがってリハビリを始めました。彼はひどく重い怪我から回復したサーカスの団員です。成果について話すにはまだ早すぎます。おそらく数年先のことでしょう。あせりは禁物です。このシステムはおもりを使って機能している筋肉に負荷をかけ、そして機能していない筋肉に継続的に触ることで次第に活性化させていきます。大変なことですが、私はこのシステムを信じています。

 

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−レーナ、何年もたったのですが、結局のところ1980年のオリンピック直前の練習で何が起こったのか教えてもらえますか?それは避けられなかったのですか、それとも事故だったのですか?

ある状況で、人は「ノー」と言えなくてはなりませんし、すでに20歳であるならなおさらです。でも私は、いわゆる温和な人間です。1980年のオリンピック前は怪我に苦しんでおり、危険を冒すような新しい複雑な技を演じるのに十分な自信がなかった時もありました。しかしコーチの言葉は私にとっては法律であり、「ノー」と言って競技会を欠場する権利がある時でさえ全てをこなし、演技をしたのです。私は「ノー」と言えない自分の無力さに打ち負かされました。そしてその日はやってきました。床運動の練習中に、私はあるウルトラCの技がこなせませんでした−1回半ひねりを含んだ1回と3/4宙返りです。まだ準備ができていませんでした。しかし、たとえコーチがいない時でも全てに打ち勝たなくてはならないという気持ちがありました。そして私は宙返りを行い、背骨を折ってしまったのです。

 

−体操競技があまりにも難しくなっているという意見が起こってきています。あなたの意見は?

難しさの概念は時とともに変化しますが、それはごく自然なことです。例えば器具が改良されてきています。段違い平行棒や床運動のスプリングマット、平均台を例にとっても、選手の可能性を広げ、限界についての概念を変えます。今日私たちが1980年のオリンピックの選手の演技を振り返ってみると−まるでいわゆる「石器時代」なんです!ですから体操においては可能性の限界にはまだ達していませんし、他のスポーツでも同じです。

 

一流のスポーツにおける人間関係もまた変化し改善されるべきだ、という問題もあります。もっと細やかで柔軟でなくてはなりません。コーチや先生の役割は非常に大きくなっています。ウラジミール・ラストロツキーの生徒たちはとても幸運だと思います。彼が生徒を侮辱したり人間としての尊厳を傷つけているのを見たことがありません。長年にわたって彼が偉大な(スポーツ)マスターを生み出してきたのも不思議ではありません。

今日のコーチたちは、結局のところ全ての大人ですら耐えられないような体と心のストレスに、時として耐えなくてはならない子供たちと一緒にいるのだということに気づくべきです。

選手の前でコーチたちがお互いに悪意に溢れてしまうことは絶対に許されません。生徒に影響し、チームの中にライバル心という悪い、神経質な雰囲気を生み出します。そして選手は自分自身に問いかけます。「これが私がスポーツに求めているものだろうか?」と。

 

−一流のスポーツがいつの時代でも若年化が進んでいることをどう考えますか?

体操においては、これは選手のトレーニング方法の間違いによって引き起こされていると思います。選手は18歳の時には「搾りきったレモン」どころではありません。選手はいつも厳しく搾られています。小さくて黙りこくった、コーチを崇拝の対象とし、訊き返すことすらなく全てをこなすような人と一緒に練習するのはずっと簡単です。彼ら自身の意見を聞いたり、おまえが正しいのだと彼らを説得する努力や時間はいらないのです。本当に素晴らしいコーチの下で練習した選手の競技生活はより長いと思います。

 

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−体操ファンから沢山の手紙をもらいましたか?

世界チャンピオンになった時、文字通り手紙に埋もれました。不幸をもたらした1980年7月3日の後にも沢山の手紙が来ました。今では友達からの手紙が多いですが、いいことです。というのも私の姿が変わってしまった時に、私がどう感じるか知らないような人達が、また私が動いているところを見たいと私を元気づけるつもりで非常識なくらいフランクに書いてくることがあったからなんです。

私はふたりの友達から手紙を受け取るのがいつも楽しみにしています。それらはブルガリアとイギリスからで、かつては私が戦った相手です。そしてまた、オリンピックのナショナルチームのかつてのチームメイトだったレーナ・ダビドワも。彼女は本当の友達ですよ。国際オリンピック委員会の委員長であり、1982年に私にオリンピック勲章を与えた、ファン・アントニオ・サマランチからも何度か新年のグリーティングカードをもらいました。

ところであの事故の後、友達だと思っていた人は皆私のもとから去り、同情や理解を予期していなかった人々が私と共にいます。友達が私を訪ねてくれるのは好きですが、知人と会うのはつらいんです。私が彼らをなだめて、回復することを約束しなければならないことがたびたびありますから・・。

 

−日々の闘いのなかで、あなたの行く手を遮るものは?

私がまだ何も「成し遂げていない」という思いです。自分自身と私の世話をよくしてくれる人々に正直でありたいという願いのおかげで、つらいリハビリを毎朝始められます。だからつまづいた時でも、私はこの闘いにおいて可能なことも不可能なことも全て行ってきたと信じられるんです。

 

 

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